みじんこプログラマの挑戦。

知識0から始まったプログラマ生活。でもプログラミングについては書きません。とりあえずやってみよう、何事も挑戦です。そんな記録。

switch (challenge) {case 考えたことを書きだしてみること①。: mijinko++; }

自分と、社会・人・モノの関係について考えてみたこと。

 

 

「鱈々」という演劇を観る機会があった。

世界から猫が消えたなら」という映画をみた。

 どちらも全く違う作品ではあるのだけれど、

どこか共通して考えさせられるものがあった。

 

考えたこと、感じたこと。

それらを頭の中で泳がせておくのではなく、文字にする。

そういうチャレンジをしていきたいと思う。

 

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【自分】と【社会・人・モノ】の関係について、

捉え方はいろいろあると思う。

二つの作品を見て感じたのは、

【自分】と【社会・人・モノ】は

「大切だという気持ち」によって繋がっているんじゃないか、

ということ。

 

 

今回はまず、「鱈々」をみて考えたことを文字にしてみようと思う。

 

 

 

自分のやっていることが、世界の中でもし何の意味ももたないとしたら?

自分の存在が、世界の中でもし何の意味ももたないとしたら?

自分がいなくなってしまったとして、世界のどこか何かが変わるのだろうか?

 

 

【社会・人・モノ】にとって自分がどういう意味をもつ存在なのかと考えるとき、

「鱈々」をみて感じたのは、次のようなことである。

自分がこつこつ行っている物事が、社会・人の役に立っていると思えること

自分の存在が、【社会・人・モノ】に何かしらの影響を生み出していると思えること

それが、自分の存在する意味や価値を確認できる方法である。

つまり、【社会・人・モノ】にとって【自分(の存在)】が「大切である」とされているとき、【自分】と【社会・人・モノ】は繋がりを持っている。

 

 

世界は分からないものだらけだ。

自分の活動範囲である「倉庫」の外で起きていることなんて、

分からないのは普通のことで、知る必要もない。

どこからか運ばれてくる箱を、中身もしらない箱を、伝票の指示通りに管理するだけの単調な日々。

でもきっと、自分がこの「倉庫」の中でまじめに荷物を積み降ろししていることは、どこかの誰かの役に立っている。

自分はきっとこの「倉庫」の外において、何かしらの影響を生み出しているし、存在価値があるはずだ。

そう信じてひたすら仕事に励む主人公。

ある日、誤って指示外の箱を積み込んでしまったことに気づいた彼は、自分のミスによって「倉庫」の外にどのような恐ろしい影響を与えてしまったのだろうか、と悩み苦しむ。

しかし彼の心配をよそに、「倉庫」の外からは何のクレームもなければ何の確認もこない日々が続く。

世界は何事もなかったかのように、ただただ同じように過ぎていく。

 

誰にも気づかれていない、気にも止められていない、ということに、彼の信念はずたずたになる。

「せめて誰かが、何か、お叱りの一言でもかけてくれたなら」

この気持ちはどれほど楽になるだろう、と、彼は言う。

いままで信じて疑わなかった、自分の精神誠意をこめた働きは、この「倉庫」の外では何の意味もないものなのだろうか。

そうであるならば、自分が今まで何十年、この「倉庫」で過ごしてきた日々はなんだったのだろうか。

 

 

誰からも反応されない、ということの恐怖。

一途に信じ続けてきた、「倉庫」の外と自分との繋がりは、ガラガラと崩れていく。

自分が価値ある存在である、という願望が打ち砕かれたとき、人はどうなるのだろう。

 

「いや、自分の行いはきっと社会にとって何かの影響を持っているはずだ」と、ひたすらに自分を信じ込ませるのか。

現実から目を背けて「倉庫」に閉じこもるのか。

それとも存在価値を見出そうと、自分の「倉庫」を飛び出してみるのか。

 

 

「倉庫」とはつまり、人がそれぞれ生活している「社会」であると捉えることができるだろう。

自分の属する「社会」の外にはまた別の「社会」が存在していて、たとえ自分の「社会」から飛び出したとしても、結局「社会」から逃れることはできない。

 

 

走っても走っても、逃げきることのできない「社会」。

そんな【社会・人・モノ】から【自分(の存在)】を「必要ないもの」とされることは、とてもショックなことであると思う。

「あなたはいらない」と言われるのは辛い。

誰かに必要とされていたいし、誰かに見ていてもらいたい。

自分のなすこと、発すること、そして存在が、他の誰かに何かしらの影響や変化をもたらしていると感じたい。

その「社会」に確かに自分は在るのに繋がりを感じられないとき、人はどこか、心の歯車が狂ってしまうのではないかと思う。

 

 

自分がどうありたいか、を考えてみると、

自分が自分のやりたいことをして満足しているのは、何か違う、と思った。

自分はこれが好き、これが大切。

それらを貫き通し、突き詰められるのもすごく勇気とパワーがいることで、尊敬するし憧れもある。

でも、それがもし自分以外の誰にとっても不要なもので、気にかける必要もない、と思われていると知ったら、私はとても怖い。

 

 

自分の「社会」の中である程度満足して暮らし、その外の、より大きな「社会」において、自分の存在は何かしらの存在価値をもっている。

そう信じて過ごす人は多いだろう。

もしその信念が崩れた時、その人はどういう行動をとるのだろう。

毎日のように入ってくる新しいニュースや事件を見聞きするたび、そんなことを考える。

 

 

自分の好きという気持ち、大切にしたい価値観。

その延長に、誰かのため、社会の何かのためという繋がりがあること。

それがモチベーションであり、心の安定になっている、ということはあると思う。

 

 

【自分】と【社会・人・モノ】が互いに「大切だという気持ち」で繋がっているような関係に、私は憧れる。

人と人の繋がり、人と社会のつながり。その関係はきっといろんな捉え方ができる。

みんなはどんな繋がりを築いていきたいと思うのだろう。

人がいきいき生きられる繋がりってどんなものだろう。

 

 

2017年、

いろいろな出会いを通して、自分は何を感じ何を考えるようになるんだろう。

【社会・人・モノ】との逃れられない関係は悩ましいけれど、

「大切だと思う」繋がりが育てていけたらいいな、と思う。

素敵な繋がりが築けたらいいな、と思う。

 

 

年の瀬のお酒の入った頭で書いた乱文、

(後から見て消したくなるのかもしれないなぁ。。)

でも、最後まで読んでくれてありがとう。